本丸入り口には,石組みの井戸の跡が発見されており,周囲からは遺骨や銀のキセルが発見されています.さらに本丸の盛り土の断面には焼土や木炭、火を受けた生活遺物や火縄銃弾丸など戦禍の痕跡が見られ,さらにその下位に地上では観察できない堀跡や溝跡などの九戸城時代の遺構が残っていることが明らかになり,当時の合戦が思い起こされます.
本丸は,城跡九戸城跡の中心に位置する曲輪で,城郭内で最も高位に位置します.一片が約100mの方形を呈し,東側と南側の二箇所に虎口を開き,南東,南西,北東の3箇所に櫓を配しています.東面,南面は石垣を持つ掘りと土塁で二の丸と画され,北面,西面は切岸状の断崖で三の丸と画されています.本丸平場は,東西方向に石段で区切られ,段差が造成されています.
東の追手門は、門と木橋があったことがわかっています.木橋は,空堀を跨ぐように,いまでは斜めに橋がかかっていますが,当時は真っ直ぐの太鼓橋が門に向かってかかっていたと推測されます.南側の虎口門と同様に敵の侵入をふせぐためクランク状の出入り口となっとおり,さらに櫓門が構えであることから敵は正面左右から攻撃にさらされる構造となっています.
堀沿いに土塁と石垣が巡り,土塁の高く広い部分は隅櫓跡です.春には桜花が咲き乱れる景観になります.本丸の高台は,当時,数間の高さの櫓があり狭間が続いていた場所です。この隅櫓は敵情遠望や射撃のために設けられた櫓であり,海抜139mと最も標高が高く眺望が効きます.登ると上方軍の布陣した山並みも望むことができます.
本丸の石垣は,城郭の石垣では東北最古,野面の古式穴太積の石垣は蒲生配下の穴太衆によるものとされ,肥前名護屋城や会津若松城に共通する様式です.発掘調査の結果,これは九戸城落城後に築かれた福岡城の石垣であることが判明しています.また,南掘跡は,南面の石垣と北側の石垣の積み方が異なっていることがわかっています.
本丸の南側には天正時代の様式を良く残したクランク状の出入口である虎口があります.この虎口は名称が不明ですが,櫓を配した櫓門を構えていたことから重要な虎口であったと推定されます.入り口には櫓門の礎石が残っています.調査では,九戸氏時代にも同じ位置に虎口があったと推定されています.